岡山大学 附属図書館

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地方資料(じかたしりょう)

庄屋・大庄屋など近世村役人の家に伝来された地方(村方)史料は、本学創設以来日本史担当教員を中心に岡山大学施設整備委員会などにより岡山県下から収集したものです。

日笠家文書

備前国児島郡藤戸村(現、倉敷市)の素封家の日笠家に伝来した古文書、記録類(4,097標目、8,417点)。藤戸日笠氏は備前国和気郡日笠村(現、和気郡和気町)の旧族であり、5代日笠頼重の代、慶長3年(1598)藤戸村に帰農し、その後、大庄屋となった。明治以後も日笠銀行や岡山電気軌道会社を経営した。

好本家文書

好本家文書は備前国和気郡清水村の好本家に伝えられた古文書・旧記類(5,413標目、11,909点)である。好本家文書は本家筋に伝えられたものではなく、江戸中期に好本和七郎が分家をした以後のもので、和七郎の子、好本和平太が清水村名主になり、その子和七郎が大庄屋となる。好本家文書は、この和平太、和七郎時代の文書が大部分を占めている。

坂野家文書

坂野家文書は備前国津高郡菅野村(現、岡山市)坂野家襲蔵村方史料4,829点。坂野家は備前池田藩領の津高郡の大庄屋として津高郡の南部20余か村を管轄した。

長瀬家文書

長瀬家文書は備前国御野郡田中村(現、岡山市)の長瀬家に伝来された古文書・記録類(1,080標目、2,376点)である。長瀬家は代々毛利家に仕えたが、天正10年(1582)秀吉の高松城水攻めの後田中村に帰農したと伝えられている。寛政2年(1790)に田中村名主となる。明治初期に、大庄屋頭取となり、その後田中村村長等も歴任した。

難波家文書

難波家文書は備前国上道郡吉井村(現、岡山市)の旧家、難波亨一氏所蔵の古文書2,110点である。難波家は、藩政時代に備前池田藩の大庄屋として上道郡の東部諸村を支配していた。

小野家文書

小野家は、倉敷市東町の小野一臣氏家に襲蔵されていたものである。小野家は備中倉敷における中世からの土豪で、江戸時代の倉敷町庄屋は同家が多く世襲するところであった。近世初頭倉敷が天領となり、幕府の倉敷代官所が置かれてからの史料が保存されており、「倉敷市誌」の史料のほとんどが小野家文書と言われている。

橋本家文書

橋本家は吉備郡新本(しんぽん)村(現在、総社市)の橋本家に襲蔵された7,520点。橋本家は、備中岡田藩領の備中下道郡本庄村の庄屋役を代々務めてきた。橋本家の当主は早く大阪府に移住されていたが、新本の留守宅の宅源寺には縁者が住居されていて、その倉に残っていた資料である。

菊池家文書

吉備郡山田村(現、総社市)の代々庄屋であった菊池家に残された文書類6,235点。山田村は元々松山藩(後の高梁藩)板倉氏の領内であったが、松山藩主板倉勝静(かつきよ)は幕末に幕府の老中の筆頭であったので、明治維新の時新政府から叛乱軍として弾圧された。藩士は四散し藩政資料が乏しいため、菊池家文書は貴重な資料となっている。

徳山家文書

徳山家文書は美作国大庭郡上徳山村(現、真庭市川上村)の徳山家に伝来された古文書・記録類4,676標目、10,248点である。徳山家の初代といわれる徳山将監が南北朝末期に美作守護職赤松氏麾下の岩倉権守春時の家老であったといわれる。正平17年(1362)山名時氏の美作攻略後は山名氏に属し、一時は紀州に転戦し、雨山城に居を構えたが、後に旧里に帰り帰農したといわれる。文化・文政の頃に地元屈指の地主へ成長した。徳山家文書もその頃の田地売券・借用証文類が多い。鉄山経営史料も多394点ある。

丸山家文書

丸山家文書は美作国大庭郡上長田村(現、真庭市)の丸山家に伝えられた古文書・記録類702標目、1,520点である。丸山家は近世初頭以来代々上長田村庄屋を世襲して明治にいたった。丸山家文書の特色は、寛文元年(1661)から安政2年(1855)に至る免状が完全に残っている点にある。

荻野家文書

荻野家文書は備前国児島郡味野村(現、倉敷市)の元名主荻野家伝来の古文書・記録類1,376標目、3,031点である。味野は、塩業や木綿機業の盛んな町として知られている。荻野家は寛文期には味野村庄屋となっていた。貞享2年に御国追放となったが、貞享4年に放免され、下肝煎に取り立てられた。荻野家文書はこの頃の時代のものが多く占められている。元禄15年(1702)には名主となり、以後代々世襲した。明治期に児島銀行を設立、また、味野紡績所の設立にも参加している。

西尾家文書

西尾家文書は備前国児島郡吹上村(現、倉敷市)の元名主西尾家伝来の古文書・記録類695標目、1,526点である。吹上は隣接した大字も含めて、下津井四カ浦と称され、帆船時代においては県下有数の商港であった。西尾家の祖は、福山藩主水野日向守勝成の家臣であったが、御家騒動のときに西尾姓を西姓に改め尾道に移り住んだといわれる。尾道の本家はその後断絶したが、分家が、吹上村に移住して西尾家を再興した。その後名主となり代々世襲されていった。

平川家文書

平川家文書は元備中国川上郡平川村(現、高梁市)の庄屋平川家に伝来された古文書・記録類3,199標目、6,875点である。平川家は、建武3年に近江国野洲郡平川郷から備中国川上郡穴斗郷の領家職を与えられた。その後尼子氏、毛利氏に従ったが、9代目に帰農した。平川家は松山代官から平川村庄屋に任ぜられ、以後代々その地位を世襲した。

溝手家文書

溝手家文書は、早島町(現、岡山市)の溝手家の文書・記録類2,189標目、3,626点である。溝手家は、少なくとも万治元年(1658)以前から早島に住み、延宝7年(1679)には前潟兼帯年寄に任ぜられ、代々年寄役を務めた。溝手家は土地集積を実施し大地主へと成長し、明治期には朝鮮半島に進出して溝手農場も経営した。

野崎家文書

野崎家文書は、備前国邑久郡西幸西村(現、岡山市)の野崎家伝来の古文書・記録類2,606点である。野崎家は岡山藩によって貞享元年(1684)に干拓造成された幸島新田に入植した。安政5年(1858)に名主役を任ぜられ、以後明治元年(1868)に大庄屋役となった。明治期には岡山県に出仕し、退官後も岡山貯蓄銀行、岡山県農工銀行等の創設に参加している。

湯槇家(ゆまきけ)文書

湯槇家文書は、美作国大庭郡中福田村(現、真庭市)の湯槇家襲蔵の古文書・記録類2,752点である。「八束村史」の編纂過程で全容が明らかになった。湯槇家は、伝承によれば慶長8年(1603)に里正になり村庄屋を束ねたと云われる。また、文政期には庄屋役を勤めたことは確認できる。湯槇家文書は村方史料を主体としたものとなっている。

梶谷家文書

梶谷家文書は窪屋郡酒津村(現、倉敷市)の梶谷家旧蔵の古文書・記録類2,850点である。梶谷家は本家から寛延の頃分家し、材木商を営んだことにはじまったと云われる。材木商売で得た利益は土地の入手に充てられ、土地の集積がはじまった。また、土地集積地域の灌漑用水(八ヶ郷用水)に対する貢献によって水利に関する大きな発言力を持ったといわれている。これらを通じて梶谷家は年寄並、庄屋格となった。

川面池田家(かわもいけだ)文書

川面池田家文書は、備中国小田郡川面村(現、小田郡矢掛町)の池田家伝来の古文書・記録類905点である。池田家は代々西川面を居所としており、川面村の新美領庄屋を勤めてきた。

児玉家文書

幕末の備前の洋学者で、岡山藩家老伊木家の侍医を務めた児玉順蔵旧蔵の私文書115点である。